明治27年11月28日福井県越廼村生まれ。
17歳の時、故郷の越廼村を出て神戸工学院に入学。
卒業後、大正5年に化学機械(硫酸や塩酸輸送用の大型タンク)を製造する小刀禰製作所として創業しました。
昭和17年に、日本ニューマチック工業(株)の経営を引き継ぎ、社長に就任。
戦時中は軍の指定工場として数千人の従業員が夜を日についで生産に追われました。
やがて終戦を迎え、混迷の中、倒産の危機に直面しながらも私財を売って社員の給与に充てたり、食料難に苦しむ社員や家族のために、自宅の敷地でいも・小麦などを栽培し、生計の援助としながら事業の維持継続・再建に努めました。
昭和28年頃より朝鮮戦争の特需や日本の戦後復興も軌道に乗るにつれ、事業手腕を発揮。
各種機械の自力開発や数多くの発明の事業化に成功しました。
小刀禰製作所創業当時
軍の指定工場当時
また創業者は、研究開発や人材育成の心血を注ぎ、それが会社の発展につながりました。
昭和32年頃は、大学卒業といえども研究開発の基礎が身に付いていませんでした。
一方、大学をはじめとする教育機関も研究設備が不足するという悩みを抱えていました。
そのような環境の中で、大学から教授・助教授を講師として招き、社内で技術者の育成に努めました
そして、昭和50年頃には、33件(海外7件)に上る特許や実用新案として結実しました。
今日では広く社会的に認知されるようなった社会貢献活動(フィランソロピー)にも早くから関心を持ち、積極的に取り組みました。
昭和22年PTA活動を出発点に、身体障害者の就労訓練所である社会福祉法人「希望の家」「さざんかの家」の創設に加わるなど、その対象は非常に広範囲にわたりました。
創業者のチャレンジ精神は、海外にも向けられました。
自社製品に対する自信が深まるにつれ、昭和30年代末から40年初めにかけて、海外へと出向き精力的に販売店の開拓、拠点作りを進めました。
現在では、アメリカ・ヨーロッパ・中国・中近東に子会社を持ち、世界中でNPK製品が使用されるようになっています。
現在、NPKが得意先から受けている信頼感は一朝一夕で得たものではありません。
謹厳実直な明治人の創業者は、多くの苦難の道のりを希望と目標を持ち、卓越した強靭な精神力で乗り越え、現在のNPKを築いてきたのです。
まさに、会社を自分の化身と考え、事業一途で、会社への信頼と愛情の深い創業者でした。