2つの会社が合併し、日本ニューマチック工業に
大正5年10月、創業者の故小刀禰栄松は弱冠21歳で化学薬品の貯蔵タンクや化学工業用機械装置の製造を行う小刀禰製作所を設立しました。
これが、現在の日本ニューマチック工業株式会社のルーツです。
大正から昭和初めの世界情勢は、第一次世界大戦の終結、世界恐慌を経て、やがて太平洋戦争に突入します。その間に、会社の規模は小さいながらもこつこつとお得意先を開拓し、堅実に発展していきました。
一方、大正12年にもう一つのルーツと言えるエアーツール製造を行う日本ニューマチック工業所が設立され、昭和13年に日本ニューマチック工業株式会社に改組しました。
やがて、当時のオーナーより経営に参画するよう懇願され、昭和17年に小刀禰栄松が代表取締役に就任しました。
終戦の年、昭和20年にこれら二つの会社が合併し、新生日本ニューマチック工業株式会社が誕生しました。
昭和20年代はタンク製造とエアーツールを事業の柱としながらも、色々な可能性を追求し、研究開発に力を注いでいました。
世界初の空圧式大型ブレーカIPH、化工機粉体事業のはじまり
昭和30年代から40年代の日本は、朝鮮特需を経て高度成長期を迎えました。様々な産業が大量生産を志向し、人手不足も深刻になりました。
そのような背景からオートメーション化のニーズが高まり、弊社も合成フィルムの抄造機をはじめお客様のニーズに合わせた製造機械の製造を手がけるようになりました。
この造機事業は昭和40年代半ばまで弊社の主要事業の一つでした。
また、この時期、現在の建機事業につながる非常に重要な製品を世に送り出しました。
世界初の空圧式大型ブレーカIPHです。
日本万国博覧会に代表される大型開発に使用され、威力を発揮しました。
さらに、従来、医薬品を細かくする場合に臼の原理で砕いていましたが、熱が発生し薬効を弱めてしまうデメリットがありました。
圧縮空気を利用すればこのような熱が発生しない画期的な方法になることが分かっていました。
その製品化に向けて研究を開始してから10年の歳月を経て、超音速の圧縮空気により物体をミクロン単位に粉砕する機械「超音速ジェット粉砕機」の開発に成功しました。
これが化工機粉体事業のスタートです。
社会からの評価、舞台は海外へ
昭和47年、列島改造ブームが始まったこの年に、油圧式の大型ブレーカHPHを開発し、販売を開始しました。
これにより、道路工事等において省力化・効率化が進み、(社)発明協会から特別賞を受賞しました。
化工機事業におきましては、粉砕したミクロン単位の物質から同程度の大きさのものだけを取り分ける装置の開発に成功しました。
この高精度粉体気流分級機「ディスパージョンセパレータ」は(社)化学工学協会や(社)日本能率協会から優秀製品賞を授与されました。
この時期、現在の建機事業と化工機事業の礎となる製品の開発に成功しましたが、もうひとつ大きな出来事がありました。
海外への進出です。
空圧式のブレーカやエアーツールの輸出には、商社経由の間接貿易の形態を取っていましたが、昭和53年に初めての海外拠点としてオランダに現地法人を設立しました。 また、昭和60年、米国にも現地法人を設立しました。
現在、欧州と米国は非常に重要なマーケットに位置づけられるようになりましたが、その当時に海外へ進出するというのは大変チャレンジングなことでした。
NPKは、皆様方に貢献できる会社であり続けます
創業期から現在に至るまで振り返ってみますと、各時代の流れの中で柱となる事業が変わっても、創業者から諸先輩に、また現在の社員に脈々と受け継がれてきたものがあります。
それは、弊社がものづくりの会社として、お客様や世の中のニーズに対応したユニークな製品群を開発してきたことです。
そして、これからも建機・空機・化工機の各事業におきまして、社員一同先輩から受け継いだ貴重な財産である世界中のお得意先のために日々製品開発や改良・アフターサービスに励んでまいります。
今この時、世界中のコンペティターがしのぎを削る米国の建機市場において、現地法人の営業マンがNPKブランドのシェアアップのために奮闘しています。
また、欧州チェコの拠点では100名を超える社員が働き、今後マーケットとして有望な中近東の販売・サービス拠点では、日本からの派遣員が現地スタッフと一緒に活動し、中国上海工場では日本のベテランエンジニアが若い中国人の機械オペレーターを指導しています。
かつて想像できなかったようなグローバル化が進んだ社会におきまして、弊社は国内外のNPKネットワークを通じて、これからも皆様方に貢献できるような会社であり続けます。